清水エスパルスシンクタンク

清水エスパルスの試合内容以外の部分、会社の姿勢や選手監督スタッフの評価などを文化人類学的なアプローチで語る。

カテゴリ: ⑤静岡におけるサッカー文化(JIMOTO)

10/7 ジュビロ磐田戦 清水エスパルスサポーターによる試合終了後の行為について
https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/41125/

10月7日(日)に開催された明治安田生命J1リーグ第29節ジュビロ磐田戦において、試合終了後、清水エスパルスの一部サポーターによる、磐田の勝利時の歌を歌う行為が行われました。これは相手に対する挑発行為であることは明らかであり、スポーツマンシップにも反し、クラブとして到底容認できる行為ではありません。今後、二度とこのようなことが行われないよう、クラブといたしましても厳正に対処して参ります。
ご来場いただいたジュビロ磐田サポーターの皆様はじめ、ジュビロ磐田関係者の皆様に、不快な思いをさせてしまいましたことに対し、深くお詫び申し上げます。
         株式会社エスパルス 代表取締役社長 左伴 繁雄


結果的に清水エスパルスの勝利に、もっとも熱心に応援した2Fゴール裏が、清水の勝利に水を差すという皮肉な結果になりました。

去年、ジュビロ磐田の試合を観る機会があり、運よく勝利した時に、勝利は続くよどこまでもの、「○○越えて~!」が「みんなで掴んだ、歓喜の瞬間」というマイルドな歌詞になっていたことに失望した身としては、まさか元通りの歌詞で歌った清水で騒ぎになるとは本当に皮肉だと思いました。

それはそうと、社長ののメッセージは、興行主として日本平スタジアムはアウェーサポーターに対して危険ではないとアピールする意味でとても大事だと考えます。
個人的には、去年のジョビロ磐田の勝ちロコは?とか、ここ数年清水が勝つと毎回やっていたので事前に警告する位の優しさがあっても良いのでは?と思わなくもないですが、結果から逆算すると、(静岡ダービーで清水が勝つタイミングを計っていたと考えるのは陰謀論的な感じもしなくはないですが、)一罰百戒の効果を最大限に発揮できたのではないかと考えます。

試合の興行というのは、「良い敵があってこそ、最高に盛り上がる。」と私は思っていますので、遠方からわざわざ足を運んでくれるお客さんに対しては一定の敬意を払う必要があると考えます。
※敬意の無い人に払う必要はない。

最近、日本平に久しく行っていないライトサポーターの連れを誘って試合観戦に行きました。
結果は散々でしたがその時に感じたことが、自分はサッカーが好きであって、試合を楽しんでいないなということでした。

私は、試合をなるべく俯瞰して観るようにして、ボールを持っていない選手、特に逆サイドや中盤の選手を気にしています。
また、ゴール前の攻防に一喜一憂をしないし、敵でも良いプレーや洒落たプレー、ゴラッソなゴールには素直にすごいと思います。

しかし、私の隣に座っていた連れ(ライトサポーター)は、清水がボールを奪えば大喜び、ゴールを奪えば大絶叫。
逆に、敵が清水ゴールに迫ればハラハラし、ゴールを奪われればガッカリしていました。
試合終了間際の選手交代を利用した時間稼ぎや相手GKの倒れ芸にも激怒していました。

多分、昔は私も↑こんな感じでサッカーを楽しんでいたけど、いつも間にか90分間で起きる出来事を一本の作品のような感覚で観るようになったのだと感じました。
どっちが良い悪いということは無いですが、何か新鮮な気持ちでスタジアムを後にすることができたので、記録として感じたことを残そうと記事に起こしました。

ちなみに試合後、バスの中で私が試合内容を一つ一つ振り返り悔しがったのに対して、連れ(ライトサポーター)は楽しかったけどそんなことあったっけという感じで、試合を楽しめたようで何よりだと思いました。

ボールを保持することが良いことで、ボールを放り込む(手放す)ことが悪いこと、と考える派閥がこの世に存在する。

ジョゼップ・グアルディオラ監督率いるFCバルセロナが強くて魅力的なサッカーをしていたことにより、一種の信仰や伝染病のように世界的に亜種が増えていたのは約10年前のこと。

しかし、今年開催されたロシアワールドカップの結果を考えれば、世界的な潮流はそこに無いと思うが、極東の島国では未だに↑のような考えを主張する人が多い。

特にボールを保持することにかけて一時代を築いたFCバルセロナやスペイン代表は、その界隈(ボールを保持することにかけて)では世界一だと思って間違いない。

ただし、そこに至るまでの過程は数年ではなく数十年の長い時間が必要で、ピッチに立つ11人全員のボールを扱う技術を高め、仲間同士の連携(イメージの共有)を絶え間ない練習で落とし込み、バックパスや消極的なパス回しを恐れない強い精神を鍛え、尚且つボールを保持することをサポーターやクラブ等が(結果が残せない時でも)全面的に後押しすることで初めて完成する伝統工芸のガラス細工のようなモノです。

 

つまり、ボールを保持することに特化するということは、チームを作るのも結果を残すのも大変だということです。

分かりやすく例えると、ジャンケンで「チョキ」は使わないと相手に宣言し、「グー」と「パー」だけで勝つような危険な橋を毎回渡るようなチーム作りをするということです。

ちょっと話が逸れますが、森保さんや鬼木さんが前任者の強烈な攻撃的サッカーに守備の決まりごとを浸透させてリーグ優勝に導いたことからも、「グー」「チョキ」「パー」の使い分けが大切だと解ってもらえると思う。

 

サッカーは、相手ゴールを奪うことで勝敗を決めるスポーツであり、その過程を競うスポーツではない。
「ゴールを奪う」という現実から目を背けた人ほど、「良いサッカー」を主張する傾向にある。

また、「悪いサッカー」と言われる放り込みについても、ダイナミックに局面を打開する興奮はとても魅力的だと思うのですが、日本人の体格ではちょっと魅力が伝わりにくいのかなと思ったりします。

 

まとまりのない文章になってしまいましたが、サッカーの面白さをボールを保持することと結び付けることは、サッカーというスポーツの価値を矮小化することに他ならないと私は考えます。

 

清水、または静岡県は長くサッカー先進地域だったため、サッカーへの関心は全国的にも高い方と私は考えていますし、実際東京や神奈川に住んでいた頃実感していました。

そんな清水を本拠地とするクラブは、本当に大変だと思います。

 

例えば、リスクを排して勝利を目指すサッカーを標榜したら、バックパスやパターンにはまった攻撃ばかりで面白くないと、サポーターを名乗る圧力団体から批判され監督解任にまで追い込まれました。

また別の監督は、組織的な守備やシステマチックな攻撃を(ロボットは要らないと)否定し、流動的なポジションチェンジによる攻撃に特化したチームづくりをしたら、守備が崩壊し敗戦を重ね、サポーターの支援も受けられず監督を辞任する羽目になりました。

 

前者は長期政権の弊害もありましたし、後者は(J1クラブを率いる監督として)経験不足だったという要因も大きかったと考えます。

しかし、この2つの事例は端的に「清水らしさ」という二面性であり相反する願望を体現しています。

 

まず、試合の結果に対しては、勝ち点3以外求めていません。

これは、大概のJ1クラブによくある傾向なので、清水特有の気質とは思いませんが、ピッチと観客席の距離が近い日本平では(近年)選手にとって大きなプレッシャーになっているという事実が結果に表れています。

また、その一方で試合の内容に対する要求の高さが異常で、リスクをかけて攻撃を望む傾向が強く、その方法もパスを繋ぎ中盤を支配しつつ、サイド攻撃により敵を崩すことを求めます。

 

普通に考えれば、こんな異次元なサッカーを実現するためには、現役の日本代表を各ポジションで最低1人以上揃えられるくらいの力がなければ実現不可能です。

 

そんな不可能なミッションに挑むクラブのビジョンが、最近明確に頂点を目指す方向にシフトしつつあるという事実に胸を躍らせている次第です。

ただ、冬の選手権で3年連続1回戦敗退に象徴される、静岡サッカーの現実を受け入れられない人が、もし多いとしたら早いうちに頓挫する可能性もあるので、できるだけ暖かい目で見守ってもらえると嬉しいなぁというのが私の偽らざる本音です。

 

昔、この国に存在したサッカー王国静岡について、単なる時流でなく何度でも立上るモノだと言う事実を語る。 
(ただし、独善的で極右な思想を含むため真剣に読む事は勧めません。) 

最初に「サッカー文化」とは、「その社会(地域)が共有する価値観」を持っていることを指し、その意味で静岡県はサッカー文化があるとは言い難いと考える。 
それは静岡県が元々三つの国が合併してできたこともあり、県西部は野球。県東部は陸上。県中部はサッカー。という具合に地域毎盛んなスポーツが違う異なる文化を持つためである。 
その意味で、県中部(藤枝・清水)はサッカー文化の根付いた地域だと言える。 

では王国とは何か、単純に何かが盛んな地域の事を指す場合もある。しかし、一般的に王国とは「君主がいる国家」の事である。 
その意味で高校サッカー界では、全国大会である「高校総体」、「国体」、「選手権」を制覇するものがこの国の王と呼ぶに相応しいと考える。 
そこに長く君臨していたという意味で、静岡(藤枝・清水)は(かつて)王国と呼ぶに値すると考える。 
しかし、それなら国見、鹿実、東福岡、青森山田、市船橋など全国数多にある強豪高のある県が全て王国なのか? 
それは違うと考える。 
なぜならそれは、その高校が強いだけで前述にあるサッカー文化の根ざした土壌から湧き上がった強さではないからである。 
言い方は悪いが、↑の高校が潰れたら四散してしまう強さだからである。 

では、サッカー王国はいかにして出来たか。 
それを可能にした仕組みはどのようなものか。 
王国はできたのではない、先人達の努力により創られたのである。 
全国でも先進的だった夜間照明を市内全小学校に完備したこと。 
指導者を育成する組織を創ったこと。 
「清商の八番?」「清水東三羽烏?」「東海第一のバナナシュート?」王国を彩る偉人は、ただ生まれた訳ではない。 
幼稚園→小学校→中学校→高校とそれぞれの過程で、学校の先生とサッカーの指導者が一体となり有望な原石を探し、磨き育て、上の学年に送り出してきたのである。 
つまり、清水では年代毎サッカーの上手な子は集められ、さらに上手くなる仕組みがこの国の学校制度に沿って構築されていたという意味である。 
さらに、隣の先進国(藤枝)では学校入学時にサッカーシューズを買い、授業でサッカーを教えていた。 
しかも、行政・サッカー協会も協力し、海外遠征や国内外の優れたサッカー選手(びっくりしたのはヨハン・クライフやペレも来ていた)を招いてのサッカー教室、海外の育成年代の代表チームを招いてのカップ戦や草サッカー全国大会など、常に外部からの刺激を与える努力を惜しまなかったのである。 

 ここに挙げた事はほんの一例で、ハード・ソフト両面の分かりやすい部分を挙げただけである。清水エスパルスに関してだけでも、小学生年代のクラブユースを組織し、県東部に拠点を造るなど新しい取組みを行っている。 
これら小さな種の一つ一つが数十年後に大きく成長し、このようにして王国は復活したと誇れるようになると信じたい。 
 また、個人的には全国大会に参加する県下の高校(クラブユース)に対して行政や地域(他高校、Jリーグのクラブなど)で支援し、静岡県の代表として結果を残せるような体制を作ることや、県西部・東部にも県中部の強豪高校を脅かすような高校を増やし競争をすること。これら県単位での取組みが静岡県をさらに強くすることに繋がると考える。 
もし、本当に王国が崩壊するとしたら、地域がサッカーに対する情熱を失い、単なるシンボルとしてクラブチームが残る。もしくはそれすら無くなることだと考える。 

最後に、ことさら「文化」という言葉を使ったのは、「サッカー王国」のことをクラブチームの強さや本拠地の地名と考え王国崩壊だとか言う輩がいるので、「王国」の意味について、分かりやすく伝えるために「文化」という言葉を用いたのである。 
でも、王国と畏怖され一目置かれていた頃の静岡県代表は、カッコよかったし本当に強くて、ベスト4くらいは普通に行くものだと思っていたのは事実です。
また、強さは全てじゃないが未来を担う子供達が憧れるような、心惹かれるようなプレーをして欲しいと切に願いこの文章の締めくくりとします。 

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